死んでから見つけてください

まだ生きてるけど

具合がわるいときに見るゆめ

打ち上げという名目の飲み会で食べたなにかに当たり、数日間寝込んでいた。寝込んでいる間見る夢はなんだか似たようなものだった。「具合が悪い時に見る夢」という言葉があるだろう、言葉というか、物事をカテゴライズするための言葉。名前?ラベルのような。みんな使うでしょう。具合の悪い時に見る夢っぽい、とコメントがついた動画を見ても、私はそれをそうとは思わない。しかしそのコメントには、いいね!やら、共感の返信などが多く光る。私にとっての「具合が悪い時に見る夢」というのは、知らない街で過ごす午前中のことなのだ。知らない街なのだが、どこかに存在しているような気がしてならない。海に面している小さな町で、そこへ向かって下る傾斜地に、こじんまりとした家が並んでいる。古き良き日本家屋というよりは、北欧建築のような家や、奇抜な色の屋根、なんだか童話に出てきそうな家が多い。中学生のとき、朝は決まって歌を歌わされた。毎月変わるラインナップ、もちろん好きな歌も嫌いな歌もあった。11月は「赤いやねの家」という歌で、歌い手の「ぼく」がかつて住んでいた家でみた景色と、現在の家の様子を歌ったものだ。どうやらその、赤いやねの家らしきものも、この街には建っている。

私は真白な布団とシーツ、枕の上、波の音で目を覚ます。さぁんさぁん、しゃぁんとも聴こえる耳障りの良い目覚まし。身体を起こすと真正面には窓がある。通り抜けて庭に繋がっているような大きな窓ではなく、跨げば外に出られるようなサイズで、アルミサッシの引き戸である。それを開けると、どうやらここは2階の部屋のようで、300メートル先くらいに海が見える。私が目を覚ます家は、かなり海沿いに建っている。海まで続く道には、こじんまりとした飲み屋と定食屋、宿が二軒、サーフボードを貸し出していると思われる店がある。その他は民家か空き家である。

私はなぜかいつも白いワンピースのような服(ワンピースというよりは、裾の長いTシャツ、この形についている名前を私は知らない)に身を包んでおり、そして部屋には先ほどの寝具たちと、正座をしたらかなり使い勝手の悪いちゃぶ台、ハンガーがある。起き上がって左手に見えるのは白い扉、白いとは言い難いのだが、黄ばんでいるとも言えない。若干クリーム色というような、なんという色なのか、自分の薄い辞書からは引けない色である。ドアノブは金属で、花のような刻印があしらわれている。

ドアを押すと短い廊下があり、進んで左に階段がある。やけに急である。階段を降りた先は玄関で、たたきは石のつくりである。白いビーチサンダルが綺麗に揃えられている。私は靴を揃える習慣があまりないので(流石に人様の家では揃えるが)、自分が履いていいものなのかといつも一瞬戸惑うが、結局は履いてしまう。ピッタリなので、自分のものであると信じてしまうのだろう。

ドアを開け、右の小道へ。すぐに、また右へ曲がる道がある。石ころだらけの道はサンダルでは歩きにくい。しかしすぐに大通りは出る。先ほど、窓から見えた道だ。真っ直ぐ進んでいく。向かいから小学生くらいの少年たちが自転車を漕いでくる。反対車線には、観光客のような装いの家族。父、母、小学生高学年の男の子。低学年くらいだろうか、黒いタンクトップを着た男の子。太陽の位置は午前中であろう。人が、多い。半袖の人々。季節は夏だ。それなのに空気はひんやりと、しかし心地よい温度で私の肌を通り過ぎてゆく。横断歩道を渡り、ぺたんこのサンダルの私では、身長よりすこし低いくらいの高さの堤防へたどり着く。なんとか登れる高さである。登る前から見えていたが、登っても見える、一面の海。ざざん、ざざんと、人間には到底奏でることのできない音を、人間には刻むことのできない間隔で鳴らし続けている。堤防を右に進むと(ちなみに左に進んでも大丈夫と見た)長い階段があり、砂浜へ続いている。駆け降りて、砂浜を走る。サンダルの中に砂が流れ込んでも気にせず走る。砂って痛い。夢でもなぜか痛いのだ。このまま走っても海には辿り着けないような気さえする。足が吸い込まれる。それでももう片方の足は海へ海へ、と引き寄せられていく。その頃には、わたしの足とサンダルは離れ離れで、地面を踏みしめる足はひんやりと、そして空気が触れてつめたい。またひん、やり、と水の気配。私は海に入っている。私はなぜか、どんどん、どんどん奥へ(その方向を奥と表現するのが正しいのか、今でも悩んでいる)、肩までが地球と一体化して、なぜかふと、振り返るのだ。振り返った先には、私が駆けた砂浜も堤防も、この地球を見たはずの家さえもない。なにも、ないのだ。ただましろな空間が広がっている。あれ、と思い自分の胸へ視線をやると、膨らみを宿しているはずの身体も、細い5本の指も、痛いと感じたはずの足も。膝も腹もへそも性器も、ない。ないのだ。なにも、ない。なにもない。白い。顔を触ろうと、手を動かしてみるが、動かない、触れない。私が手と思って動かしていたものは手ではなく、それでは一体?私の顔は?この手が触ることのできない顔は、それは顔と呼べるのだろうか。なぜ、私はここにいるの。私は、だれなの。わたしは、何?わたしって、なになのだろう。

と、同時に目が覚める。

本当に目が覚める。

 

ほんとうの私はまだあの白い空間の中にいて、ここにいる私は、夢の中の私が見ている夢なのではないかと、たまに疑ってしまう。

こちらの私は手の感覚があり、顔も触ることができる。実態のあるものばかり、信じてしまうね。さて、目が覚めるとは一体どういうことなのだろうね。